11月162016
恩師 逝く
今日(11/16)は、朝から晴天で、心地よい1日。
11月半ばとなり、毎日のように喪中はがきが届き始めている。
今年は、少々多い様だ。
そんな中で、残念な喪中はがきが届いた。
差出人は、小学校6年生の時の担任だったO先生の奥様名。
はがきによると、3月に81歳にて永眠され、故人の遺志で、葬儀は身内で執り行ったと。
この辺りの新聞では、お悔み欄があり、その情報は届くのだが、記載がなかったのか、私が見逃したのか、他の方から聞くことも無く知らなかった。
Uターン後、1度お会いしたいとは思っていたが、なかなかチャンスも無く、ある方からは、お元気と聞いていただけに残念だ。
小学校卒業以来、年賀状のやり取りはさせていただいたが、10年ぐらい前からは返信が無くなってはいたが、私の方からは出し続けていて、Uターンした事もご存じだったかと思う。
それだけに、一度ご挨拶に行くべきだったと・・・・。
大変悔いが残る事になってしまった。
先生は、6年の時の担任で、色々な思いでがある。
みんなの前で、なんともショックな事を言われた。
確か読書感想文の返却を受ける時の事。
「本1冊読んで、感想が原稿用紙1枚とは何だ。ほとんどの人がそうだった。誰だって最低でも2,3枚は書けるはずだ。山藤は除いて・・・。こいつは1枚しか書けない。」と。
子供心としては、一人だけ取り残されるみたいな気持ちで、ちょっとショックだった事を覚えている。
その当時、本を読むことが嫌いで、読書感想文になると、本の前書きや結論部分、帯に書いてある事から、あらすじ報告を書いて、その感想だけを書いていた。
おそらく、その事を見透かされての、お説教だったのではないかと・・・。
真意は、定かではないが、「その1枚しか書けなかった私が、毎日ブログが掛ける様になりました。」と報告したかった。
逆に、褒められた事もある。
「山藤は、しゃべる事だけは、21世紀の人間だ。みんなも見習え。」と。
自分にとっては、当たり前のことで、その時は、「どうして褒められているか?」と疑問だった記憶があるが、なんとなく嬉しかった。
それから、もう一つ忘れなれない事がある。
どういうことで、おっしゃたのか、覚えてはいないのだが
「山藤の親父は、凄い親父た。君たちの親父とは違う。」と。
息子としては、とんでもなく嬉しかった記憶がある。
これには、前置きがあり、その数日前、「尊敬する人は?」なんて事を発表する時間があり、一人ずつ歴史上の人物などを答えた。
私の番になり「親父です。」と答えた所、「そういうレベルではない。」と一喝されたのだ。
しかし、その後父親と何かの機会に話をされたのか、父を褒めていただく事となり、子供ながらに、「自分の発言を認めてもらった。」事が嬉しかった。
更に、先生とは夏休み中、ご一緒した記憶もある。
まずは、「自転車乗り方競技会」なるものがあり、6年生2名、5年生2名の合計4名の団体戦で、実技、学科の得点で争う大会だった。
その時の6年生は、当ブログのコメンテーターの新聞屋の所長君と私。
市大会、県大会で優勝し中国大会まで行った。
帰ってきて、すぐに少年野球大会。
チビだった私は(体格の問題ではなくセンスも無かったかもしれないが・・)、残念ながらBチーム。
新聞屋の所長君と同じくコメンテーターの三歳からの同級生君はAチームだった。
こんな濃い1年を過ごさせていただいた。
真っ黒な顔(日焼け)をされた、熱血先生だった。
授業中も、何か勝手な事をやっている生徒に対して、”黒板消し”が飛んで行っていた記憶がある。
私も、その洗礼を何度か受けた記憶が・・・。
今では、暴力教師とも言われかねない行動だったが・・・・。
しかし、みんな先生の事が好きだったのではないかと思っている。
O先生、大変可愛がっていただき、ありがとうございました。
一度、お会いしたかったのですが、残念です。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
久しぶりにお邪魔してみれば、O先生が亡くなられたとの記事。
何とも淡い小学生時代の思い出の中、鮮明な記憶が今もある恩師でした。
ただ、私にとっては担任の先生ではなく、野球、バレーボール、自転車の乗り方競技会等、授業以外で大変お世話になった先生。
やはり一番は野球かな? 小学校5年、6年を2年間指導受けた。その後、中学3年間、高1の夏の大会前に野球部を辞めるまで、
O先生仕込みの野球の基本は十分に通用した。
最後に先生と会話したのは、中学1年の玉江大会。
小学校時代は、超鈍足であった私が陸上大会の選手として先生と再開。
『石本・・お前、何しとる?』と聞かれ、
『リレーに出ます!』と照れ笑い。
不思議な顔をしておられたのが今も、いと可笑しい!
中学入学と同時に野球部に入部。
信じれないくらい走らされた私は、結構な俊足に変身していたのです。
競技終了後、私の所へこられて『お前・・・いいね~!』
そう言って、すごく嬉しそうな顔で笑っておられた。
あれから48年・・・ご冥福をお祈りします。
元新聞屋の所長様
君にとっても、忘れられない先生だったと思います。
私は、5年の時は、お呼びが掛からなかったので、6年の時の濃い1年でした。
しかも、担任でしたし・・・・。
私も最後にお会いしたのは、中学校の時(何年の時かは忘れましたが)、たまたま玉江の事前練習か何かで江津中に来られていた時に体育館横で、少しお話しさせていただいた事を覚えています。
あの時から、50年近くになるんですね。
花田屋 様
訃報に接することが多くなりました。
そうですか・・、O先生。
真っ黒な野球の先生でしたね。
私も一方ならぬお世話になりました。
ご冥福をお祈りします。合掌。
三歳からの同級生様
そうなんですよね。
恩師やお世話になった方等の訃報も多くなりました。
君にも、O先生との思い出はあろうかと思います。
寂しくなります。